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敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 154 回  *** 第40番 ***
*****  平兼盛ー我が恋の歌枕  *****

目    次
<大和物語と拾遺集> <関の歌> <兼盛歌の引用> <兼盛邸址>

百人一首・第40番 忍れど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで


光琳カルタの平兼盛

<大和物語と拾遺集>

 天徳四年(960)の内裏歌合の約10年前にあたる天暦五年(951)撰集の勅命が下り、
天暦年間に成立したのではないかと思われる勅撰和歌集「後撰集」二十巻1426首では、
平兼盛は「兼盛王」として一首入集していますが、「大和物語」では、兼盛贈答歌とされいる
歌が他に4首「読み人知らず」として採歌されています。

 大和物語の中に於いて兼盛は5段(56,57,58,72,86)に言及されていて
物語中の歌数は藤原兼輔の7首を抑えて8首と最も多い歌数の歌人になっています。  
 その代表的な歌枕は第58段に述べられている「安達ヶ原の黒塚」「かはづなく井手」
「名取の御湯」あるいは「塩竈の浦」などです。

 「みちのくの安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」(巻九・雑下・559)
 「花ざかりすぎもやするとかはづなく井手の山吹うしろめたしも」
 「大空の雲のかよひ路見てしか な とりのみゆ ればあとはかもなし」(巻七・物名・386)
 「塩竈の浦にはあまや絶えにけむなどすなどりの見ゆる時なき」
 「安達ヶ原の黒塚」については「源重之」の連載の所で取り上げます。

 陸奥には友人源重之との関係から大変縁深い土地柄であることが分かります。

 さて、兼盛が本格的に歌の名手として重く取り上げられたのは、三代集最後の巻き、拾遺和歌集から
です。同集では、紀貫之107首、柿本人麻呂104首、大中臣能宣57首、清原元輔48首についで、
平兼盛38首となっています。
 拾遺集中の兼盛の歌枕を巡回してみましょう。38首の中には、

 をぐらやま(128) 淀の渡り(234) 吉野山(250) 浜名の橋(342)
 名取の御湯(386) おものの浜(608)弥高山(610) 大国の里(614)
 吉田の里 (615) 泉川  (616) 松ヶ崎(617) みくまの(890)

などに加えて、関(白河の関(309)や関戸の院(347))が詠まれています。
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<関の歌>

  
<白河の関>
 まず白河の関は次のように詠まれています。

 ーみちの国の白河の関越え侍りけるに
 「たよりあらばいかで都へつげやらむけふ白河の関は越えぬと」(拾遺集・巻六・別・339)

 白河の関(339)における兼盛の歌碑は、既に百人一首第69番歌人能因法師の連載文である
第77回(その3)「生業と歌枕」で言及しております。
 ここでは兼盛の時代から後世の人々が白河の関にどのように足跡を残していったかを垣間見ま
しょう。
 白河関の一風景として白河神社の境内に寛政12年(1800年)白河藩主松平定信公(1758
〜1829)によって立てられた石碑「古関蹟」とその右手前に残されている「幌掛け楓」を
まず引用しておきます。
 この楓の樹は、八幡太郎義家(1030〜1106)が安倍貞任追討の前九年の役のとき、幌を
掛けたという楓で、記念植樹されている物です。

(左)白河神社境内にある源義家縁りの「幌掛けの楓」(右)義経縁りの「旗立ての桜」
 さらに時代が下がって源義家の係累にあたる源義経(1159〜1189)が治承四年(1180)
平家追討に都に上がる時に、源氏の旗印を立てたという桜も名残の植樹がされているのです。
 義家にしろ、義経にしろ、当地白河の関が陸奥国への主要路であったために歴史上の人物となって
往来したものです。境内の木陰の中に、踏みしめられた小径の土の表に永い歴史の雰囲気が醸し出さ
れている「古蹟」の佇まいです。

 古蹟の背後の丘陵には、「白河関記念公園」が設けられ、展示館によって当地の歴史が伝承されて
います。
 源義経からさらに時代が下がって後鳥羽天皇が「白河の関」と題して詠んだ御歌も顕彰碑になって
います。

 「雪にしく袖よ夢ぢもたえぬべしまだ白河の関の嵐に」(後鳥羽天皇御集・1449)

(左)白河関記念公園入口遠望(右)後鳥羽天皇歌碑
 さらに現代風景として記念公園内に昭和期の人気関取・高見山こと東関大五郎の「白河関相撲道場」
があり、地方巡業の折、一週間ほど稽古風景を観覧させてくれるとのこと。いまやこれという人寄せ
のものもなく、往来の人通りも希な当地での唯一の客寄せ行事ということになるのでしょう。
 白河の関を関取が通過するわけです。


<関戸院>
 次の「関」は、摂津国と山城国の国境に設置された貴族旅宿としての「関戸院」(関外院とも
称された)です。
 この地の関は東国への「逢坂の関」に対応する西国への「山崎の関」に当たります。逢坂関は
その後も長らく存在したのですが、山崎関は9世紀にすでに廃止されていたようです。ただし
有事の時には臨時に都の西玄関を固める意味合いから警護軍を関に派遣した例があります。天慶三年
西国に発生した「藤原純友の乱」に対して臨時関となりました。

 ー源公貞が大隅へまかり下りけるに、せきとの院にて、月の明かりけるに別惜しみ侍りて
 「はるかなる旅の空にも後れねばうらやましきは秋の夜の月」(拾遺集・巻六・別・347)

 関戸院については連載文の第18回・第24番・その一「菅家ー苦渋の都落ち・太宰権帥」の項で
言及しましたように、都の西の玄関口にあたるところの関所のあとに建てられた官人用、特に貴族の
ための公的宿泊施設です。現在大山崎町と島本町の境界にあって、関大明神社は大阪府島本町に所属
しています。

摂津と山城の境界にある関大明神社
 かって菅原道真公(延喜元年・901・太宰府左遷時)、藤原道長(治安三年・1023・高野参詣
帰途)、さらには、西海へ都落ちしていく平氏一門(寿永二年・1183)が再び都に戻れるように、
淀川対岸の男山八幡宮に祈願したところでもあるわけです。

 兼盛も親しき友を任地に送るために都の出口に当たる関戸院までやってきて、別れを惜しんだの
でしょう。
 少し時代が下がって、能因法師の親友であった大江嘉言も兼盛と同じ心境で関戸院にて月を詠み
上げています。

 ー関戸院といふ所にて、羇中見月といふ心を
 「草枕ほどぞへにける都いでていくよか旅の月にねぬらめ」(新古今集・巻十・羇旅歌・931)

 ちなみにかの紀貫之も承平五年(935)「土佐日記」にて山崎の宿を認めていますが、かれは
関戸院に泊まったのではなく、山崎の里にある心ある人の家に好意で泊めてもらったようです。

 「・・・十二日。山崎に泊れり。・・・十五日。・・・船のむつかしさに、船より人の家に移る。
  この人の家、よろこべるやふにて饗したり。・・・」

(注)京都府乙訓郡大山崎町の紹介は、参考メモ書きを添付しておきます。

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<兼盛歌の引用>

(その1)枕草子の世界

 「枕草子」作者・清少納言の父親清原元輔(908〜990)と平兼盛の没年は同じ990年
(正暦元年)ですから、両人はほぼ同じ世代に属することになるでしょう。
 清少納言にとっては一世代上の両歌人の名歌(後撰和歌集や拾遺和歌集)は当然才女として
熟知していたことでしょう。ちなみに父親は、後撰和歌集の撰者でもあったわけですし、彼女は、
父親にしてかつ歌の名手としての父親の名誉を生涯傷つけないようにと、詠む歌には慎重にならざるを
得なかったと推測する文学研究者の意見もあるところです。
 
 平兼盛の歌も次のように「枕草子」(第178段・角川文庫)「雪のいと高うはあらで、薄らかに
降りたるなどは、いとをかしかりけれ。」という書き出しで引用しています。
 この部分の現代語訳(松浦貞俊・石田穣二訳註)を引用しますと、次のような下りになります。

 「・・・宵も過ぎたかと思う頃に沓の音が近くに聞こえるので、おやと思って外を見たところ、
  時々、こうした風情のある晩にひょっくり顔を見せる人だった。
  「今日のこの大雪をどうしておられるかとお案じもうしあげておりながら、なんと言うことも
  ない用事にさしつかえて、どこそこに一日過ごしてしまいました。」
  などという。「今日来む」というあの歌のような意味合いを込めての挨拶らしい。昼間あった
  事をはじめとして、いろんな話しをする。・・・」

 ここで、「今日来む」の歌とは、平兼盛の次の歌のことです。

 「山里は雪降りつみて道もなし今日こむ人をあはれとはみむ」(拾遺集・巻四・冬・251)

 拾遺集が寛弘2年〜4年(1005〜1007)頃成立したのに対して、枕草子は長徳元年〜2年
(995〜996)から寛弘年間に掛けての成立と推測されていますから、清女は拾遺集中の兼盛の
歌を引用したのではなく、既に兼盛没後、有名歌人としての兼盛歌を熟知していたことになります。
ひょっとしますと、兼盛没後私家集としての「兼盛集」が成立していて、それらの知識を得ていた
のでしょうか。


(その2)近代箏曲界

 明治・大正・昭和期における箏曲世界の重鎮宮城道雄の作曲した「比良」という作品は、平兼盛の
歌を活用しています。音楽辞典(平凡社「日本音楽大事典」(1992))から引用します。

 「比良」 半雲井調子の箏、本調子の三弦それに尺八で演奏される手事物。
      1923年(大正12年)宮城道雄作曲。
      歌詞は「和漢朗詠集」巻上・春部・早春項の第17番歌、平兼盛和歌を使用。
      構成は、前奏・前歌・手事・後歌よりなり、手事から二上がり。
      作品評価としては、従来の三曲合奏形態を踏襲しつつ、各構成部分の独立性を重視した
      宮城道雄特有の新しい三曲合奏形式による最初の作品で、以降、この三曲形式は、
      「軒の雫」「花紅葉」「遠砧」「高麗の春」と繋がれていった。
 (註)半雲井調子 箏曲の用語で、俗箏の調弦法の一つ。生田流と山田流では、意味するところが
          少しづつ異なる。
    手   事 地歌箏曲の楽曲部分の名称。上述のように構成要素をさす場合もある。
           器楽的なまとまりのある間奏部分をいい、それに比重を置いた楽曲を
          手事物という。

 さて、和漢朗詠集から採られて「比良」と命名された平兼盛の和歌とは次の歌です。

 「みわたせば比良のたかねに雪きえてわかなつむべく野はなりにけり」(兼盛)

 近世の人々は「比良」を近江八景「比良暮雪」と鑑賞しました。琵琶湖畔の近江路を人々が
東国へ旅立つとき、また都へ帰還するとき見上げるのが琵琶湖に対して屏風のように連立している
比良の山々で、旅人の心に印象深いものです。

(左)歌川広重画・近江八景比良暮雪(右)歌川広重画・近江八景(魚栄版)(大津市歴史博物館所蔵)
 
  箏曲の巨匠宮城道雄氏は、古典の世界にも造詣深いことが推測されます。和漢朗詠集にも日ごろ
から目を通して親しんでいたのでしょう。兼盛の歌を選んでいることに注目したいと思います。
 和漢朗詠集は、既に本連載第35回第55番その2・大納言公任ー朗詠谷でも言及しましたように
和歌216首を含み当時の名詩歌計804含まれているアンソロジーです。その数ある中から兼盛の
上記の「比良」歌を箏曲の手事物の前歌・後歌に選定したところが興味のあるところです。

 和漢朗詠集に於いて藤原公任お好みの歌人連は、貫之(26首)・躬恒(12首)・人麻呂(8首)・
中務(8首)・兼盛(7首)・赤人(6首)と続きます。
 兼盛の歌は、実質10首あり、その中には当然の事ながら兼盛の知れ渡った前述の「白河関」の歌も
採られています。ここでは「比良の高嶺の雪」に因んで、「雪」を詠んだ歌2首を挙げておきましょう。

 「あさひさす峯の白雪むらぎえて春の霞ははやたちにけり」 (79番歌)
 「見渡せば松の葉白き吉野山幾世を積める雪にかあるらむ」(498番歌)
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<兼盛邸址>

 平兼盛が「我が恋」歌を詠んでいたのは都のどの当たりなのでしょうか。
 兼盛邸は六条北高倉東と伝えられ、現在位置は河原通りから通を二本西に行き、五条通と六条通の
中程、六条院公園の対面にある高倉会館と高倉幼稚園の所に比定する説(矢野貫一「京都歴史案内」)
があります。

六条高倉東付近の地理(出典:矢野貫一著「京都歴史案内」講談社・昭和49年)

兼盛邸跡地
 この辺りはかってかの源融公の河原院があったところとされていますから、なにかと百人一首歌人
には縁りの深い土地柄になるわけです。

 源融公縁りの地において、諸先輩歌人の恋の歌枕に夢を載せながら、兼盛も<我が恋>の世界を詠み
繋いでいたのです。<我が恋>の展開を追ってみましょう。

 <我が恋>
 兼盛の百人一首歌の聞かせ所は、「我が恋は」「色に出にけり」でした。彼の「我が恋」展開を
私家集で追ってみました。

 24番歌 「我が恋はつつゐの浜と成りななむ心をくみて人はしるべく」
 28番歌 「我が恋はくらべてしかな山川の岩間のなみにかずをそへつつ」
 33番歌 「我が恋はたぐへてやりし玉しひのかへり事まつほどの久しさ」
 35番歌 「我が恋は長柄の橋の下よりもつくる世なくもなりにけるかな」
 36番歌 「我が恋はいをなき淵の釣なれやうけもひかれでやみぬべらなり」

 <処世訓>
 恋歌のみに執着していた兼盛ではなかったのです。次のような処世訓的詠唱もあります。

 15番歌 「よのなかを今は限りとおもふには君こひしくやならんとすらん」
 87番歌 「おもふてふことはいはでもおもひけりつらきをいはでつらしともみじ」
179番歌 「世の中にたのしきものは思ふどち花見てくらすこころなりけり」
193番歌 「かぞふれば我が身につもる年月をおくりむかふとなにいそぐらん」
 そして究極の思いは、彼の好きなことば「人知れず」「思ひそめ」ていた次の歌です。

 22番歌 「あふことを今やとまつにかかりてぞ露の命の年をへにける」
 16番歌 「春霞たなびく空は人知れず我が身より立つけぶりなりけり」 
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平成16年2月21日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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