敷 島 随 想



「連 載」 第 53 回  ***第6番・その3***
*****中納言家持ー難波津の兵部少輔

<武人としての家持>
 越中国守の官務を無事に終えて、都に帰ってきた家持の次の公務は歌人としての力を発揮する事では
なく、大伴家先祖代々の武人として御門にお仕えすることでした。
 天平勝宝6年(754)家持37歳の時、兵部少輔になりました。
 
 (註)兵部省の長官(卿・かみ)(正四位下相当)以下、大輔、権大輔の次の少輔が位置していて、
    従五位上の位です。

 翌年天平勝宝7歳(年を改めて唐式に称したもの)(755)2月難波津に結集して、西国に向かう
防人を検閲し、多数の防人歌を記録し、自らも防人の悲情を歌にしています。

(出典:上田正昭ほか「難波京の風景」(文英堂)1995年3月)
 天平勝宝8歳(756)2月末から孝謙天皇、聖武上皇の難波行幸に随行し、「堀江の歌」「時鳥の
歌」などを作歌しています。

 「堀江より水脈さかのぼる梶の音まなくぞ奈良は恋しかりける」(巻20・4461)
 「ほととぎすかけつつ君が紐解き放くる月近づきぬ」(巻20・4464)

 この時期、政界は権力闘争の渦(大伴古慈悲ほかの朝廷誹謗事件など)に巻き込まれそうになり
ながら、大伴一族の名誉維持に努めました。

 天平勝宝9歳(757)(天平宝字元年)6月武人としては、名誉の兵部省の卿に継ぐ次官に当たる
兵部大輔に昇進しましたが、7月橘奈良麻呂の変が発覚し、事件への直接の連座はないものの、翌年の
因幡守への左遷人事に繋がりました。
  武人としての公務をこなす中で、政事の不安定な動きに係わらざるを得なかった心の動揺した時期
でもあったのです。兵部省の高級官僚の立場で、何度となく難波津の地へ往復したことでしょう。
 難波津では武人としての家持の一面と歌人として防人に接する他面とも持ち合わせていたようです。
<防人の歌>
 天智二年(663)白村江敗戦への対処として、翌年より防人と制度が設置され、ほぼ90年経過
した天平勝宝七歳は、三年ごとの防人交替の年に当たっていました。東国の農民と引率してきた国司
(部領使・ことりつかい)に命じて天皇への服従と忠誠の目的で誓詞的意味合いの濃い「防人の歌」を
長官である橘奈良麻呂宛に提出させました。
 進上歌166首中84首を採録しました。その殆どの歌が天皇への誓詞ではなく、国に残してきた
親族(父母、妻、子供)への思いであったのです。万葉集20巻目に残された歌々は次の通りです。

防人の歌(万葉集 巻20・4321〜4436番歌)

進上月日防人国名進上歌数採用歌数
2月6日遠江国18首7首(4321〜4327)
2月7日相模国 8首3首(4328〜4330)
2月9日駿河国20首10首(4337〜4346)
上総国19首13首(4347〜4359)
2月14日常陸国17首10首(4363〜4372)
下野国18首11首(4373〜4383)
2月16日下総国22首11首(4384〜4394)
2月22日信濃国12首3首(4401〜4403)
2月23日上野国12首4首(4404〜4407)
2月29日武蔵国20首12首(4413〜4424)
 家持が直接取捨選択したと思われる防人の歌84首に加えて、これらの歌の後に天平勝宝七歳
(755)以前の防人の歌も8首(4425〜4432)および1首(4436)計9首が採録され
ています。これら93首の歌の心情は殆どが親を思い、妻を偲ぶ歌です。
 代表的な次の歌は防人の絶唱でしょう。

 <父母を思う歌>

 4337 「水鳥の発ちの急ぎに父母に物言ず来にて今ぞ悔しき」
      (碌に親に別れの言葉もかけられずにバタバタと来てしまった悔いの心。
       難波津の兵舎に西国への出陣を待ちながら、思い出すことは家のこと、ふる里のこと。
       ふる里の家を思い出しては、ああいえばよかった、こうも言っておきたかったと
       そればかり思ってしまうのでしょう。
       この歌では、序詞「水鳥の発ち急ぎ」がぴったりです。)

 4340 「父母え斎ひて待たね筑紫なる水浸く白玉取りて来までに」
      (筑紫の海の真珠をお土産に持って帰るからね、とちょっとした旅行気分です。
       無事に帰られるかどうか分からないから余計、帰るときのことをあれこれ思うの
       でしょう。平成現代に言い換えれば、海外軍事支援活動の艦船に乗る自衛隊の隊員は、
       波止場での家族との別れにどんなことを言うのでしょうか。現在では、ほぼ100%
       3年も待たずに、確実に帰ってこられますから、「ではちょっと」ですむでしょうが。) 

 4346 「父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」
      (無事を祈り頭をなでてくれたという当時のおまじないのような物であったのでしょう。
       沸々と親子の別れの情景が浮かんで参ります。何とも心を衝く歌でしょう。1350年
       前に歌われた歌とは思えません。言霊でしょう。方言まで入って何とも云えない味の
       ある歌です。これを歌った防人の命がこの歌に乗り移っています。万葉集が伝えられる
       限り、この防人は、この歌と共に永久に生きることが出来るのです。) 

 4356 「わが母の袖持ちなでてわがからに泣きし心を忘らえぬかも」
      (袖で撫でながら泣いていた母。こうなりますと、映画のシーンそのものです。
       何ともやるせない情景です。見る人の聴く人の涙を誘います。この時は、防人も母も
       何も言わずにじっと目を見つめ合ったまま、別れを惜しんでいたのでしょう。
       何万語の別れの言葉を使うより、この和歌一首に別れの全てが圧縮されています。)

 4376 「旅行に行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ」
      (当時も思うことは、母親が先だったのです。母系家族集団だったのでしょう。
       旅行とは書き替えられていますが、「たびゆき」(多妣由岐)と原文の万葉集では
       書かれていました。防人の「たびゆき」は今で言う「旅行」どころではなかった
       でしょう。五句目の方言がまたいいですね。)


 <妻を思う歌>

 4322 「わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さえ見えてよに忘られず」
      (人が人を思うとき、このような状態になるのでしょう。若い人が恋に陥ると見るもの
       全て思う人の面影に見えてくるものなのでしょう。妻を思う切実さが、何ともぴったりの
       物言いで表現されています。これは、和歌を作ろうと思って苦吟した上の歌い出しでは
       ないように思います。正しく、本人が難波津の兵舎で、太宰府行きを待っているときの
       体験でしょう。)

 4327 「わが妻も絵に描きとらむ暇もが旅行く吾は見つつ偲はむ」
      (現代で言えば、形見の写真を胸に、というところでしょう。この作者も本当に家を出る
       とき、あるいは、難波に来てから本当にそう思ったのでしょう。これも何とも切実な
       言い回しでしょうか。実感としてよく分かり、なかなか考えることが賢い内容です。
       当時の地方での一般庶民には、神は、現代の写真以上に貴重な物であったはずですから、
       それこそ、写し取った妻の絵は肌身離さず身につけることになるでしょう。)

 4343 「我ろ旅は旅と思(おめ)ほど家にして子持ち痩すらむわが妻(み)かなしも」
      (かなり強い方言が混じっていますが、それがまたよけいに作者の切実さを伝えています。
       出兵していく人の気持ちは、1350年前も現代も変りありません。子供を抱えて
       苦労かけるなあとは、何とも現代的なと言うべきか、何時の世も変らない言い草です。)

 4357 「あし垣の隈処に立ちて我が妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ」
      (この歌の情景にも思わず、映画の別れのシーンが浮かんできます。家の垣根の隅に
       立って、別れの辛さをこらえている。まともに見送るだけの気丈さが出てこない
       じぶんの妻の様子が何ともいじらしい。そういった女性らしい仕草を的確につかんで
       歌にしています。「垣の隈処」とか「袖もしほほ」などの表現に、作者の歌誦力は、
       かなりのものと考えるところです。)

 4364 「防人に発たむ騒きに家の妹が業るべきことを言わず来ぬかも」
      (この作者はまだ冷静な精神状態です。留守の間に「あれも見ておいてくれ」「これも
       頼む」と色々と言い残してきたことばかりが気になるのでしょう。防人への召集は、
       突然に近い形で行われていたようです。確かに、戦時体制の時は、予定も何もあった
       ものではありませんから。)


 <子を思う歌>

 父母を、また妻を思う歌々は、今でも情景が浮かび出てきて涙を誘います。なおさらに、次の子供を
思った歌は、本当に悲痛です。

 4358 「大王の命畏み出で来れば我ぬ取りつきて言ひし子なはも」
      (「取りつきて」の一語が活きています。上句の公的な自分の気持ちと、下句の私的な
       自分の心情とを対比させながら、双方相矛盾する複雑な気持ちを和歌に圧縮して
       います。)

 4401 「唐衣袖に取り付き泣く子らを置きてぞ来ぬや母なしにして」
      (自分が出兵したしまい、親なしになってしまった子を、思い出しています。
       父親に行ってしまわれると自分一人になることは、十分分かっているからです。
       切ないですね。家を出るときの親子の別れがどんな様子であったかがわかります。
      「泣く子」と平明な言葉で表現していますが、狂乱に近い形で父親にすがりついたで
       あろう子供の様子が分かります。)

 4436 「闇の夜の行く先知らず行くわれを何時来まさむと問ひし子らはも」
      (親も子も本当に明日からの行く末が見えていない状態を上句と下句でうまく表現して
       います。防人で出兵していく親自身、子供の不安以上につかみ所がない、落ち着かない
       精神状態であることを、子供の言葉の裏に表しています。「いつ帰ってくるか、何て、
       自分こそ問いたいくらいだ」というのが、親の本音でしょう。)


 <護国兵士の歌>

 以上のように、本当に一庶民の立場で、素朴な感情を方言混じりに和歌にした人々の歌心は、言霊の
代表例として、現代の我々の心にも響き渡ってきます。
 一方、次のような少し目線の高い歌もあるのです。

 4370 「霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍にわれは来にしを」
 4373 「今日よりは顧みなくて大王の醜(しこ)の御楯に出で立つわれは」
 4394 「大王の命畏み弓の共真寝か渡らむ長けこの夜を」

 特に4373番歌は、前の戦時体制下では家持の「海ゆかば」の歌と共に、もてはやされた国防歌
であったのです。
 これらの歌を詠んでいますと、かっての大戦時の学徒動員による戦場への出兵とその歌
「きけわだつみのこえ」を思い出さずにはいられません。特に前に挙げた父母を思う歌の心情は
学徒動員兵と全く同じ防人の心が吐露されていると見ていいのではないでしょうか。

 かって戦場に向かうときに人生最後の座右の書として万葉集が挙げられていたと物の本にありました。
相通ずる心情があるからでしょう。
<家持の防人に対する歌>
 2月6日から、日を追って東国の各担当部署から防人の進上歌が挙がってきました。多感な家持が
心を動かされないはずはありません。果たして、家持の作歌活動は、防人の歌の上進が進むと共に
活発になって行きました。防人らに同情し、憐れむ「防人が悲別の心を追ひて痛み作る」長歌を始め、
短歌数首を詠みました。
 万葉集巻20に残された歌々は次の通りです。

 家持の防人を詠む歌々(天平勝宝七歳・755)
月  日歌  数歌  番  号
2月8日長歌1首・反歌2首4331〜4333
2月9日短歌3首4334〜4336
2月13日長歌1首・反歌2首4360〜4362
2月17日短歌3首4395〜4397
2月19日長歌1首・反歌2首4398〜4400
2月23日長歌1首・反歌4首4408〜4412
 家持は歌人の目を通して、後世に残しうる東国の素朴な人々の故郷を思う歌々を残してくれました。
 これら84首の歌を通して、1250年以上前の昔の人々の心を覗くことが出来るのです。肉親を
思い郷土を愛する心情は現代以上と言っていいでしょう。
 東国から南百里と離れた難波津で悲嘆の声を発した人々の姿を偲ばざるを得ません。

 家持の歴史上に残した功績は民族的偉業といってもいいでしょう。
<防人の集結地・難波津の堀江>
 万葉集巻二十・4321番歌から始まり4436番歌に至る防人の関係歌116首の中で難波や
難波津は17回も引用されています。

(出典:上田正昭他「難波京の風景」(文英堂)1995年3月)
 その具体的な現在場所はどこかという推定をするのに、兵部少輔家持の次のような歌の中の
関連地名が参考になります。

 「難波の三津」(4331)、「防人の堀江」(4336)、「堀江より」(4396)

 難波津は現在の大阪市上町丘陵台地の沿岸周辺に設けた港の「大伴の三津」あるいは「住吉の津」
などの総称でしょうか。「堀江」とは仁徳天皇11年難波の地に作られた堀で大川(旧淀川端)の
一部と推測します。
  
 大坂城西隣の石町(こくまち)は、大川に面した上町台地の北斜面に位置しています。かって
この地が摂津国の国府があった仮定も出されています。「こくまち」は国府(こうまたはこくふ)の
転化した地名では、とも思われます。

(出典:上田正昭他「難波京の風景」(文英堂)1995年3月)
 交通、特に船舶による物流の重要港として、難波津の機能を維持するために、天満砂州を東西に
横切る川を掘削したのではないかと推論されています。
 この砂州の生成は、淀んだ河内湖へ、淀川や大和川が運び込む土砂で上町台地から北へ伸びて
発達していった上町台地の半島のようなものです。
 
 堀江が上町台地沿岸のいずれの所在にしても台地北端一帯は、大和朝廷の重要な管理区域で
あったことは確かです。
 行基菩薩が難波堀江に架橋した「堀江橋」は、それから300年後の世界の筆達者・清少納言の
枕草子第64段「ものはづくし・橋の巻」で「堀江の橋」と言及されています。
<森の宮神社と鵲歌碑>
 大阪城公園の南西隅には大阪市を一巡しているJR環状線の「森ノ宮駅」があり、駅前の玉造筋に
面して「森の宮神社」(鵲森の宮神社)(御祭神:天照大神)があります。
 かって大伴家持が兵部少輔として、勤務していた天平期(天平勝宝二年・754年)(家持37歳)
難波京朝廷の位置はこの神社から西に約500m程上町丘陵を上がったところになります。

 神社の由緒書きに依りますと、推古天皇の御代(592〜628)新羅国より帰ってきた吉士磐金
(きしいわかね)が鵲を献上しました。鵲はこの森に飼育されたことより「鵲の森」となったとのこと。

  この伝承は、「日本書紀」に記されていることなのです。
 日本書紀巻二十二 推古天皇(豊御食炊屋姫天皇・とよみけかしきやひめのすめらみこと)の記事

 ・・・五年冬十一月の癸酉の朔甲午(二十二日)に、吉士(難波吉士)磐金を新羅に遣わした。
      六年の夏四月に、難波吉士磐金は、新羅から帰って鵲を二羽献上した。それを難波社に
     放し飼いにさせたところ、枝に巣を作り、ひなをかえした。・・・
      (出典:井上光貞「日本の名著I・日本書紀」中央公論社(昭和45年12月)295頁)

 この日本書紀の原文は、京都国立博物館に保管されていますが、たまたま平成14年一月から
 二月にかけて、催された「聖徳太子展」に展示され、聖徳太子は、特に推古天皇に関係深い事績から、
当該記事のところが開かれた状態で展示されていました。

聖徳太子展の案内(背景は、国宝・玉虫厨子と重文・南無仏太子像)と国宝・天寿国繍帳
 「森の宮神社」の創建は崇峻天皇(587〜592)の2年7月、聖徳太子が御尊父用明天皇を
弔うために尊像を彫刻され、宮殿を造営された事によるとのことですから、1400年以上も前に
遡ることになります。

 玉造筋に面している鳥居をくぐり、右手拝殿前に立ちますと、左手の狛犬の後ろに大伴家持の
歌碑を確認できます。
 万葉仮名のままで家持の百人一首歌が刻まれています。石碑の裏面の説明には次のようになって
います。

 ー「鵲の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」
   家持が難波宮において防人の整理に当たっていたときに詠まれたものと考えられる。
   ここに鵲社があり、江戸時代まで鵲村があり、鵲橋は明治まであった。」ー

 鵲との関係より家持の歌碑となったわけです。

<古代の森ノ宮>

 上町台地東端から河内湖を望んだであろう森の宮の地域が、古くからの土地柄であることを推し
量れる古い社があります。

 大坂城の真南玉造町内で森の宮神社南西方向約400mほど離れたところに、「玉造稲荷神社」が
あります。

 紀元前12年垂仁天皇時代の創建と伝わり、御祭神を宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)と
しています。
 
 難波入り江には紀元前には人が住み着くようになった証拠です。4世紀に仁徳天皇が上町台地上に
高津宮(たかつのみや)を築き、難波堀江を掘削し、淀川沿いに茨田堤を築き、和珥池(わじいけ)を
作るなどの土木工事を興し、上町台地の開発を推し進められたわけです。

 5世紀終わり頃、仁賢天皇6年(493)高麗に工匠を求めて農業に従事しない玉造専門職が
この地に存在していたことは「日本書紀」巻15に記録されています。玉造の地は1100年後
豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、さらにそれから300年後、同じく戦に関係して日本軍隊の
軍需工場(工廠)が設置されました。

 歴史の偶然とは云えないこの地の宿命なのでしょう。玉造の地は軍事上重要拠点であり続けたと
言うことでしょう。軍需工場は跡形もなくなくなりましたが、玉造神社は残っています。
 大坂城周辺の工廠も近代高層ビル街になりました。


戦後平和の時代へ衣替えした軍需工場跡(大阪城公園・野球場跡地など) <参考一口メモ>難波津焼き
 難波津に関係した最近の新聞記事(読売新聞 H。14.2.2付け)

 大阪港海底の粘土利用 ー難波津焼きー
 大阪港の建設現場で掘り出された海底の粘土を利用した「難波津焼」。
 廃棄される物をもとに、伝統の陶芸に迫る味わいを目指している。
 8年前に開発され、地道な創作が続いてきたが、全国にアピールするため
 他都市でも作品展を計画。同じ原料を使った新たなアートも発信する。

平成14年1月30日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。

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