敷 島 随 想



「連 載」 第 54 回  ***第6番・その4(参考メモ・その1)***
*****橘諸兄と万葉集

<万葉集の編纂>
 万葉集中に言及されている橘諸兄の和歌は、下表の約27首ほどです。
 元々万葉集の編纂は、大伴家持が独自に考えたものではなく、多分に国家事業的意味合いが濃い
ところから、橘諸兄他の朝廷中心人物が関与していた可能性が大きいと推察されています。
 以下参考資料より要点を抜粋します。
    (出典:橋本達雄「王朝の歌人2・大伴家持」創美社(1984)p。106)
編纂期天皇主要人物編纂作業
第一期持統朝柿本人麻呂頃巻一・巻二原型部を形成
第二期聖武朝
(初期)
長屋王時代 笠金村、山部赤人ら
巻一・巻二増補と
巻三、四、六、八などの
資料収集
第三期聖武朝
(晩期)
橘諸兄時代 田辺福麻呂、市原王、大伴家持
(天平十七年従五位下・28歳)
巻三から十六までの編纂
(天平十六年・744までの作品を収録)
 橘諸兄の企画にもとずいて、天平十六年から十八年にかけて編纂作業が国家的事業のような形で
進められたものと考えられています。
 
 残る巻十七から二十までは、天平十八年(746)以降の歌が中心で、内容から見て、家持個人の
歌日記のようになっています。したがってこの部分は、万葉集最後の歌(天平宝字三年・759)
以降に別途編集され、万葉集の最後の4巻になった物と考えられます。

 この最後の4巻が何時万葉集に加えられ、最終の形をなしたかに付いては、宝亀年間
(770〜780)と考えられており、従五位上で停滞していた家持の位階昇進がどんどん進んだ
時期に当たります。

 万葉集の主体をなす巻一から巻十六までの完成に、橘諸兄の尽力が大きかったことが推測されます。
 和歌編纂に理解力を示す時の朝廷の実力上司と、優れた万葉歌人の部下のいい組み合わせが、
万葉集を生んだのでしょう。
 橘諸兄の聖武朝に於ける国政への実績もさることながら、この民族遺産を創出した功績は、
如何なる業績にもまさる記念すべき歴史的成果と言えましょう。

 藤原仲麻呂は権力を振るった「単なる歴史上の高級官人」で、最後はあえなく国賊として斬首される
に過ぎませんし、優れた和歌を残したとも聞きません。何とも殺伐たる人生だけが、後世に伝えられる
だけのように思います。
 
 大伴家持は、官人としては、波乱の人生を送ったわけですが、1200年後の日本人から見ますと、
永遠の言霊を世に送り出した優れた文化人であったと見ることが出来ます。
 仲麻呂の人生より、家持の人生が如何に頼もしい物であったか、天国の家持に伝えて挙げたい
気持ちで一杯です。

<万葉集中の橘諸兄の歌>

巻数歌番号詞書き
1009左大弁葛城王等、姓橘氏を賜ふ(御製歌)
1024右大臣橘家の宴の歌四首(長門守巨曽部対馬朝臣)
1025右大臣の和する歌なり
1026故豊島釆女の歌
1574右大臣橘家の宴の歌
1591右大臣橘卿の旧宅の宴にて(内舎人大伴宿禰家持)
十六3807陸奥釆女の歌
十七3922左大臣橘宿禰、詔に応ふる歌
3926大伴宿禰詔に応ふる歌
十八4032左大臣橘家の使者を守大伴宿禰家持饗す
4056太上皇の難波宮に御座しし時の歌
4057左大臣の歌に御製を并せたり(太上皇)
4060左大臣橘卿宅の肆宴の御歌(粟田女王)
十九4256左大臣橘卿を寿かむが為(大伴家持)
4269左大臣橘朝臣宅肆宴の歌(太上天皇御歌)
4270左大臣橘卿のなり<六角井戸脇石碑の歌>
4281左大臣尾を換へて云はく、いきの緒にするといへり。
然れども猶し諭して曰はく、
前の如く誦せよといへり。
右の一首は、少納言大伴宿禰家持のなり。
4289左大臣橘家の宴にて(大伴家持)
二十4304左大臣橘卿、山田御母の宅に宴する歌
4446丹比国人真人の左大臣を寿く歌なり
4447左大臣の和する歌なり
4448味狭藍(あじさい)の花に寄せて詠めり
4449兵部卿橘奈良麻呂朝臣の宅に宴する歌(治部卿船王)
4454左大臣、兵部卿橘奈良麻呂朝臣の宅に集ひて宴する歌
4455天平元年、班田の時の使葛城王、
山背国より薩妙観命婦等の所に贈る歌
4456左大臣詠めりと爾(しか)云へり
 上表の中で、4270番歌と4281番歌を引用しておきます。

 4270番「葎(むぐら)はふ賤しき宿も 大王のまさむとしらば 玉敷かましを」
 4281番「白雪の降りしく山を越えゆかむ 君をぞもとな気の緒に思ふ」
             (註)橘諸兄公から直接添削を受けた「気の緒に思ふ」とは
         「心に掛けて思っている」ということです。
<橘諸兄公の略歴>
邦歴西暦略歴
天武13年684父敏達天皇裔美努王(治部卿摂津大夫従四位下)
母県犬養三千代、葛城王(光明皇后異父兄)
和銅3年710従五位下
天平3年731諸氏の挙により参議
天平4年732従三位
天平8年736弟佐為王と上表し橘宿禰姓下賜、橘諸兄と称す。
天平9年737藤原氏族四卿のあと、大納言
天平10年738右大臣
天平11年739従二位
天平12年740藤原広嗣筑紫に反乱、乱平定後正二位
恭仁宮経営主唱
天平13年741国分寺造営詔、紫香楽宮大仏鋳造開始
天平15年743従一位左大臣、久邇京留守司
藤原仲麻呂抬頭
天平18年746兼太宰帥
天平勝宝元年749正一位に昇叙、僧玄ム、吉備真備を登用
孝謙天皇即位、実権は藤原仲麻呂へ
天平勝宝二年750朝臣姓賜る。
天平勝宝七年755 聖武上皇病中、大伴氏・佐伯氏中心で藤原氏打倒を計る。
天平勝宝八年756致仕(引退)、聖武太上天皇薨去
天平勝宝九年
天平宝字元年
7571月6日74歳で没。

平成14年2月13日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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