敷 島 随 想



「連 載」 第 54 回  ***第6番・その4(参考メモ・その3)***
*****石川年足について*****

 大伴家持が越中国守より都に帰ってきた天平勝宝年間750年代、朝廷内の人事で、家持の行動に
何らかの関わりを持っていたと考えれれる人物がおります。
 二人が最も接近した時期は、兵部省に於いて、上司(兵部卿)と部下(兵部大輔)の関係になった
天平勝宝九歳(757)です。この天平勝宝年間、家持は兵部省の役人として殆ど都にあった数年です。
<兵部省>
 兵部省の職掌は、「諸国の兵士および軍事に関する一切のことを掌どり、隼人司を支配する役所」
(出典:和田英松「官職要解」講談社学術文庫(1983)p。104)となっています。
 役職には、卿(かみ・正四位相当官で、公卿の兼官)を長官として、その下部職として、
大輔(たいふ)、権大輔、少輔(しよう)、権少輔、大丞(たいじょう)、少丞、大録(だいさかん)、
少録、史生(ししょう)、書生(しょしょう)、省掌、使部と連なっていました。

 「兵部卿石川年足」と「兵部大輔大伴家持」は兵部省のトップの座を占めていたわけです。
<略年譜>(「国史大事典」吉川弘文館ほかによる)
西暦年邦暦年略歴および関連事項
688朱鳥3年石足の長子として生まれる。大紫蘇我牟羅志(連子)の曾孫
(河内国石川郡か)
735天平7年従五位下叙位、外任を多くこなす。
739天平11年出雲守、善政に対して褒賞授与
740天平12年従五位上<藤原仲麻呂傘下に入る>
743天平15年正五位下
744天平16年東海道巡察使
746天平18年正五位上、陸奥守、春宮員外亮兼左中弁
747天平19年従四位下、春宮大夫兼左中弁
748天平20年参議叙任
聖武天皇、左大臣橘諸兄、大納言藤原豊成
参議藤原仲麻呂(743年5月任)
749天平勝宝元年従四位上式部卿兼紫微大弼
万葉歌を詠ず
750天平勝宝2年参議従四位上治部卿紫微中台大弼勲十二等
751天平勝宝3年参議左中弁
遣唐使安全祈願奉幣使として伊勢下向
753天平勝宝5年従三位兼太宰帥
757天平宝字元年6月兵部卿・神祇伯を兼ねる。
7月橘奈良麻呂の乱
8月中納言叙任
孝謙天皇、左大臣・右大臣藤原豊成
紫微内相・大納言藤原仲麻呂
758天平宝字2年8月正三位大納言兼中納言叙位
淳仁天皇、大保・紫微内相藤原恵美押勝
759天平宝字3年6月中納言兼文部卿神祇伯として、勅令で
律令と並ぶ「別式」二十巻制作封事上表し、編集
ただし、施行されず。
760天平宝字4年1月御史大夫兼大納言
淳仁天皇、大師兼大保藤原恵美押勝
761天平宝字5年10月近江保良遷宮、稲四万束下賜。
762天平宝字6年9月30日75歳で死去。

<年足という人物想定>

 年足の性格は「続日本紀」や「河内名所図会」などの如何にも実際に会ってきたかのような口振りの
人物説明に依りますと、
 「卒性廉勤にして、治体に習ひ家を興し、少判事に補す。」
 「公務の間、ただ書を見ることを悦ふ」
とかかれています。しかし、「故居さだかならず」と。

 石川年足の官人としての人生は、藤原仲麻呂の昇進と共に、引き上げられてきたものであることが
わかります。
 彼には二つの点が幸いしています。
 まず、藤原南家武智麻呂の兄弟(兄豊成・大納言、弟仲麻呂・参議)が丁度朝廷で勢力を伸ばし
始めた時期に参議に成れたことです。
 もう一つの幸いは、藤原仲麻呂が失脚して、天平宝字八年(764)斬殺される丁度2年前、まだ
仲麻呂が朝廷で絶対的な権力を握っていた時に、前に他界したことです。彼の死亡が2年遅れていたら
どんな連座の罪をかぶせられたか知れません。

 反対に兄の豊成は天平宝字元年(757)5月左大臣に任ぜられながら、2ヶ月後の7月太宰権帥に
左遷され、弟仲麻呂に朝廷での独断場を与えてしまいました。
 さらに仲麻呂が斬殺されたと共に右大臣で帰り咲きましたが、翌年11月亡くなりました。

 石川年足は、仲麻呂から羽振りの良いところばかりを頂戴して、生涯を終えたということで、誠に
うまく時流に乗れた「ついていた官人人生」で、有終の美を飾れました。

 「続日本紀」は、かっての上司と部下の関係をも伝えています。

 「・・・石河朝臣年足薨時、年七十五、詔遺摂津大夫従四位下佐伯宿禰今毛人、信部大輔従五位上
  大伴宿禰家持 吊賻之、・・・」

 「吊賻」とは、「吊」は、「弔」の俗字で、同じ「ちょう」と読み、「賻」は「喪主を助けるために
金品を贈って弔うこと」で「ふ」と読みます。つまり、現代で云う「香典」を持って弔問した、と
いうことです。現代の風習と全く変らない日本人の行動です。現代と同じように、黒い喪服を着て、
弔問したのでしょうか。家持はどんな気持ちでかっての上司年足を偲んだのでしょうか。
 誠に興味津々の所です。

<墓誌の発見>

 天平宝字6年(762)亡くなった後、摂津国嶋上郡真上光徳寺村(現在の大阪府高槻市真上町内)
の丘陵に葬られました。没後1058年経った江戸期文政三年(1820)正月庄屋田中六右衛門屋敷
の裏山から墓誌が発見されたのです。

田中邸の西側風景(撮影中) 年足の墓誌 田中邸の東側風景(撮影中)
発掘された墓誌、および現在の旧庄屋田中邸と裏山
 墓誌(銅板に鍍金、縦29.6cmX横10.3cmX厚0.3cm)の銘文には、年足の略歴が
刻まれていました。

 「武内宿禰命の子宗我石川宿禰命の十世孫にあたる左大弁石川石足の長子で御史大夫神祇伯を歴任
  して、天平宝字六年九月没し、摂津国嶋上郡白髪郷酒垂山を墓地とした」

ことを誌しています。
 この墓誌は発見後高槻藩領主永井飛騨守の目付に取り上げられましたが、明治三年永井家より田中
録十郎氏に下付されたので、小祠を建て年足の霊を祀り社宝としたとのこと。明治44年4月17日
国宝に指定されました。(出典:大阪府学務部「大阪府史跡名勝天然記念物・第二冊」(昭和49年
9月)清文堂出版)

現在の神社(撮影中) 現在の神社(撮影中)
年足神社(かっての荒神塚)
 何故奈良の都の高級官人が摂津国の村里に埋葬されたのか不明ですが、この摂津の地は、古くから
開かれた郷であったことが周囲の数々の歴史的遺跡群より推察することが出来ます。
 すなわち当地から約500mほど南側は、東西に西国街道が走っており、芥川を介して対岸には
今城塚古墳、或いは継体天皇三島藍野陵が連なり、陵の前方後円墳の中心線を北へ延ばした所にある
阿武山古墳には大職冠藤原鎌足公廟が確認されています。

 石川年足が埋葬された頃は、奈良の都からは離れているものの、藤原氏族の勢力が十分に及んでいた
ところで、年足は藤原仲麻呂の勢力下にあって、この地の何かに縁故があったものと考えます。
 (例えば、仲麻呂の所領地の管理をしていたか、自分に自由に出来る領地がこの地に認められて
  いたか、など)
<年足の親族>
 年足の父親は、「石足」(いわたり)、子息は「名足」で、「足」の漢字を継承しています。
 蘇我氏族の流れは次のようになっています。(出典:「国史大辞典」吉川弘文館)

蘇我氏系図 石川石足
667年 天智年間安麻呂子息として生る。
708年 和銅元年 正五位下・河内守
729年 天平元年2月 長屋王の変時、
仮の参議叙任、 正四位上左大弁、
天平元年3月 従三位昇進、
    8月9日63歳で没。
名門豪族蘇我一門の末裔として
老年漸く正式に参議に成りかけた時に
亡くなっています。

 しかし、息子の年足は親の分までいい目をしました。それは、おばさんに当たる媼子が藤原不比等に
嫁して、武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)の兄弟を生んだのです。
 武智麻呂の子が豊成・仲麻呂兄弟ですから、年足に贔屓して朝廷での昇進を早めてくれたのでしょう。
要は、従兄弟の子供に助けてもらったわけです。

 逆に朝廷内での血族関係が薄れて行く一方の大伴氏族の家持は、恨めしい気持ちで石川年足の栄進
振りを眺めていたことでしょう。

 なお、息子の名足は、従三位中納言までに至りましたが、なにせ「部断滞なし」「しかるに性すこぶる
褊急なり」とのことですので、いま一歩大人物に届かなかったようです。
<年足の万葉歌>
 「仲麻呂卿」一途に官途に励んだ年足も、「公務の間、ただ書を見るを悦ふ」と云いつつも作歌の
気力も示したようです。式部卿石川年足朝臣として

 「天にはも 五百(いは)つ綱延ふ(はう)萬代に国しらさむと 五百つ綱延ふ」
                      (巻19・4274)
 何となく民間歌謡を借りてきてそのまま自分の歌にしたのでは、と思われるような歌語の節回しです。
 実直な文書管理官僚の面影が浮かんでくるようです。


平成14年2月15日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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