敷 島 随 想



「連 載」 第 56 回  ***第6番・その6***
***** 中納言家持ー長岡京の邸宅 *****

<流転の四半世紀>
 万葉集を締めくくった因幡国守から帰京したのが、天平宝字六年(762)で、信部(中務)大輔の
官職ですが、位階は依然として「従五位下」のままでした。
 歌を詠じなくなったか、或いは歌を残さなくなったか、さらに可能性として濃いのは、残したはずの
後半生の歌を自分のあづかり知らぬ藤原種継事件への連座で没収焼却されたか、いずれにしても家持は
それからの四半世紀は、正しく人生流転の中、一首の歌も残していません。

 陸奥で鎮守将軍として延暦四年八月(785)亡くなるまでの45歳から68歳の23年間は、
これまでの官人としての人生より数倍も波乱に富んだ人生模様を描いています。
 その行動は、その都度和歌に読み上げる暇もないほどに激しいものでありました。
 何度も自ら意図しない方向に運命が押し流されては、戻り、また流されては戻りの年月でありました。

 延暦四年正月(785)長岡京大極殿で朝賀の式典に臨むまでの彼の位階の急昇進状況と目まぐるしい
官職の変遷を辿りますと、次の表のようになります。
西暦年邦暦年月年齢位階官職関連事項
762天平宝字六年正月45従五位下信部大輔藤原仲麻呂権勢衰微
763天平宝字七年四月46同  上同  上藤原良継叛に連座
764天平宝字八年正月47同  上薩摩守左遷
(3年6ヶ月)
藤原仲麻呂斬首
767神護景雲元年50同  上太宰少弐
(2年10ヶ月)
770宝亀元年六月53同  上民部少輔道鏡失脚
宝亀元年九月同  上左中弁称徳天皇崩御
宝亀元年十月正五位下
(21年振り昇進)
同 上光仁天皇即位
771宝亀二年十一月54従四位下同  上
772宝亀三年二月55同  上兼式部員外大輔道鏡没
774宝亀五年三月57同  上相模守上総守兼務
宝亀五年九月同  上左京大夫兼上総守
775宝亀六年十一月58同  上衛門督吉備磨吉備没(83)
776宝亀七年三月59同  上伊勢守
777宝亀八年正月60従四位上同 上藤原良継没(62)
778宝亀九年正月61正四位下同 上
780宝亀十一年二月63同  上参議・右大弁
781天応元年四月64正四位上右京大夫
兼春宮大夫
桓武天皇即位
天応元年五月同  上左大弁春宮(早良親王)
天応元年十一月従三位公卿光仁天皇崩御
山作司配命
782延暦元年正月65同  上氷上川継謀反に連座
一時京外追放
延暦元年五月同  上春宮大夫復職
延暦元年六月同  上陸奥按察使
鎮守将軍
783延暦二年七月66同  上中納言
時節征討将軍
784延暦三年五月67同  上同 上藤原種継
造長岡京使
785延暦四年正月68同  上同 上新京長岡京で
朝賀の式典
 この官職表に依りますと、家持は一度も新都長岡京に在住することなく、陸奥の任地で没したことに
なりますが、時節征討将軍は遙任で、実際は新都内の邸宅で死亡したと推定する説もあるようです。
 しかし従三位公卿は、朝廷の高級官人ですから、当然新京に邸宅は与えられていたと考えられます。
 現に参考資料(前述の山嵜泰正「大伴家持の心象」ときじく文庫(1985年6月)p。45)にも

 「延暦三年六月二十三日新京の邸宅を造るために正税68万束を右大臣以下参議以上に賜った。
  家持も従三位で中納言・春宮大夫として、長岡京に新邸を造営したであろう。・・・・」

と言及されています。
<長岡京の概要>
 前に引用した資料(山嵜泰正「大伴家持の心象」)によって、長岡京の概況を見ておきましょう。
長岡京の年代延暦3年11月11日〜延暦13年10月22日
(784・1218年前〜794・1208年前)
時の天皇桓武天皇(48歳〜58歳)(〜70歳崩御)
遷都の理由(1)寺院勢力との絶縁により政治の乱れを糺すこと
(2)米の運搬に便利な水陸便を考えた地理的理由
(3)天武天皇系の平城京より天智天皇系の新都へ移行すること
(4)土師氏や秦氏の財力による誘致
幻の都とは「日本後記」「続日本紀」他の資料が不足しているため
宮域全体が条里制水田区画下に埋没しているため
遷都の提言者和気清麻呂(733〜799)
長岡京の京域向日市(大内裏)、長岡京市(東市・西市)、
大山崎町(港・水上交通拠点)、京都市西京区、南区、伏見区
ほぼ平安京に等しい区画(表下の長岡京・平安京図参照)
長岡京の人口推定約10万人(平城京約20万人)

 阪急電車京都線西向日駅周辺の大極殿址、小安殿址、或いは築土堤名残り、は次の写真の通りです。

小安殿址の宮址碑と大極殿址の広場
阪急西向日駅東口の朝堂院址の公園
朝堂院より東へ約百m地点の築地址

<長岡京の発掘>

 残された歴史的文献・資料類が少ないために「幻の都」と言われた長岡京も「日本後記」や
「続日本紀」その他の関連記載内容の通り続々と埋没していた遺跡が確認され始めました。
 過去数年間の新聞報道上の情報だけでも、6回を数えることができます。
順番年 月 日場      所主な出土物
平成7年10月6日京都市南区・名神高速道路脇貴族邸址
(正殿他9棟分)(家持邸か?)
平成8年5月9日向日市上植野町 杭列(大土木工事跡)
平成10年6月30日向日市内・ビール会社倉庫建設予定地 土器片類
(「大歌」「政所」墨書品)
平成11年3月26日向日市森本町 宮城門址(宮域の確定)
平成11年7月10日向日市鶏冠井町 最古の木簡(物忌み)
平成11年8月29日長岡京市神足 「使役」の宿舎址(東西17棟)
(右京六条一坊十二町)

名神高速道路脇発掘現場の航空写真(発掘現場リスト番号1)
発掘現場全景(発掘現場リスト番号1)
 発掘現場毎の新聞記事は、表内の「主な発掘物」の欄を検索(クリック)願います。

貴族邸の発掘現場

 長岡京は前述のように784年から794年までのわずか10年間の都でした。
 この都の主人公桓武天皇(737〜806)は、781年から806年までの25年間の在位中に、
平城京から、長岡京、長岡京から平安京へと2回も遷都を行ったわけです。
 その40年前聖武天皇が平城京から恭仁京、難波京、紫香楽宮と転々とした時期に継ぐあわただしい
移動の時代となっています。

 8世紀は正しく王朝がさまよえる時代であったのかも知れません。これだけ放浪生活をしますと
さすがに皆さんお疲れと見えて、平安京に遷都後は鎌倉幕府以下の武家居城を別にすれば、19世紀
半ばまで、約1100年間都は移動しなかったことになります。

 因みに「武」の漢字を称する天皇は、桓武天の聖武天皇以外、神武天皇(1)、天武天皇(40)
文武天皇(42)の方々がおられ、いずれも時代が大きく変動する御代に当たっています。

 財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターが進めている

 「長岡京址左京第361〜363次調査」

 の結果、左京南一条三坊に当たるところで、大きな貴族の邸宅址が発見されました。この貴族邸宅は
1町(14800平方メートル、約4500坪)の広大なもので、当時三位以上の貴族17名の内に
大伴家持も入っているので、「家持の長岡京邸宅」の可能性ありと報道されました。
 なお、家持以外の三位以上の貴族には、藤原種継ぐなども含まれています。

 発掘場所は、下図のように長岡京大極殿の東側地区に当たるところで、現在JR京都線や新幹線と
名神高速道路に挟まれたところで、大路址や、居宅の柱穴址、井戸などが出てきました。


 
 発掘現場区域内で発見された井戸は、現在でも水が湧き出ているわけですから、正しく千二百年前の
昔が蘇ってきた世界と言えます。
 上表のいずれの発掘現場でも、地中に埋設していた1200年前の世界がまざまざと出現してきた
感がしました。正しく「万葉のロマン」とでも言うところです。
 とりわけ、井戸枠や掘っ建て建築物柱基礎部の木材は、まだ生々しい木材の原形を保ったまま出て
きていますから、本当に1200年じっと地下に眠っていたという様相を呈しています。
 その地に元に生活していた人々の幻が徘徊している気持ちを抱かせます。

平成14年2月23日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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