敷 島 随 想



「連 載」 第 57 回  ***第6番・その7***
***** 中納言家持ー陸奥での終焉 *****

<多賀城への道>
 大伴家持が万葉集での最後の歌を、天平宝字三年(759)42歳の正月に因幡国庁で詠んで後、
相模守、上総守、伊勢守等を歴任し、宝亀十一年(780)参議となり、延暦元年(782)6月17日
陸奥按察使鎮守将軍として多賀城へ赴任しました。
 現地で中納言を拝命し、さらには時節征討将軍に昇格し延暦四年(785)8月28日多賀城で没し
ました。 家持の終焉の地は、陸奥多賀城であったのです。 

 多賀城址への最寄りの駅は、東北本線陸前山王駅(極最近のニュースでは、「国府多賀城」という駅が
できました。そこから、城址まで約1kmです。仙石線の多賀城駅からは、約2km程離れています。

 行政区域としての多賀城市の中心はやはり多賀城駅周辺で、市役所・ホテル・文化センター・大學
等が集まっています。
  陸前山王駅前の小さな村落の南側を国道沿いに東に道をとりますと、前方の小高い森の丘陵地に
多賀城址があります。
 いずれの国の国庁もそうであったように国庁は、周辺の平野より少し小高いところで、一見すれば
何の変哲もない田舎の丘陵地に過ぎませんが、国庁を置くだけの地理的に有利な条件が整っている
ところなのです。現在の仙台港は、多賀城市の東側に当たりますから、船の便でも便利なところに
位置付けられています。

<多賀城の歴史>

 奈良朝の東北辺国に於ける国防の拠点であった多賀城の歴史を同城遺跡南面に建っている
「東北歴史資料館」の資料を通覧してみましょう。

 多賀城は家持が赴任する丁度60年前724年(神亀元年)築城されたばかりで、この周辺での前後の
辺境防備体制を見ますと、

 708年 和銅元年 出羽柵 (最上川川口)(秋田県)
 733年 天平5年 秋田城 (雄物川川口)(秋田県)  
 737年 天平9年 牡鹿柵 (仙台湾北辺)(宮城県)
 
 また家持没後20年目の802年・延暦21年には、坂上田村麻呂による胆沢城への進出となって
います。さかんに北辺の警備を固めつつ国境を現在の青森県境あたりの北辺へ追っていった時期で
あったのです。

 多賀城の大きさはいびつな矩形形状をしており、約900m四方の築地塀に囲まれた「大垣」で
東西100m・南北120mの約74万平方メートル内に政庁を中心にして工房・倉庫などが丘陵に
点在していました。
 また政庁の南面する平野には碁盤目の官街が展開していたことが昭和38年(1963)以来
続いている発掘調査で分かってきました。

多賀城の模型復元図

多賀城政庁への正面階段と正殿址

 全体の規模から推察しますと、「遠の朝廷・太宰府」にも匹敵するような都城を目指した城郭の
建設を進めながら10世紀後半には廃れてしまいました。
 因みに太宰府の「観世音寺」に当たり多賀城の南東に位置した「多賀城廃寺」も確認されています。
  なお多賀城の北辺防備を兼ねた加瀬沼の南堤には陸奥総社宮も後世に祭祀され、多賀城の歴史を
記しています。

陸奥総社宮と加瀬沼

<壺の碑(つぼのいしぶみ)>

 多賀城址入口南門址近くに8世紀中頃に建立されたと確定されつつある碑が立っています。
 小さな祠の中には高さ2m・幅0.9mの「多賀城碑」または「壺の碑」があります。
 この碑文は藤原恵美朝臣朝狩(正しくは、けもの扁に葛の漢字)が天平宝字六年(762)即ち
家持が多賀城へ着任するほぼ20年前に建てられたと言うことになります。
 この「壺の碑」を建立した藤原朝狩(?〜764)とは、かの藤原仲麻呂の四男です。
  なお、この碑を建立して約2年後恵美押勝の乱(天平宝字八年・764)で、彼は近江の琵琶湖西岸で
命を落としてしまいます。

 この碑は、江戸時代(1660年頃)土中から発掘されたもので、平安時代末期から和歌に詠まれた
歌枕「壺碑」と合体して、一躍世間に知れ渡り、名所になったようです。
 発見後約20年経った元禄二年(1689)「奥の細道」を行く松尾芭蕉も「泪を流さんばかりに
感激」して次のように記しています。

  「・・・壺の碑市川村多賀城にあり つぼのいしぶみは高さ六尺余、横三尺ばかりか。
  苔を穿ちて文字幽かなり。四維国界の数里をしるす。
  ・・・ここに至りて疑なき千歳の紀念、今眼前に古人の心を閲す。
  行脚の一徳存命の悦び、羇旅の労を忘れて泪もおつるばかりなり・・・」

 一時期この碑は、偽作ではないかと疑われていましたが、多賀城の発掘が進むに連れて見直されて、
平成10年(1998)5月に国の重要文化財に指定され、一応の価値が再認識されました。

(産経新聞「歴史ドラマランド」より・平成11年1月5日付け)

<死してなお安住地なし>

 延暦三年(784)2月、大伴家持が「時節征討将軍」に任命されて、多賀城に赴任し、その4年前
(780)に起こった蝦夷出身伊治公砦麻呂(いじのきみまろ)の反乱に見られるような北辺の政情
不安を鎮静するに十分な成果を上げえないままに、翌年の延暦四年(785)8月28日に多賀城に
没しました。

 それから1ヶ月も経たない同年9月23日午後10時頃長岡京造宮長官藤原種継(49歳)が、
射殺されました。
 伊勢国境に行幸中の桓武天皇は、直ちに長岡京へ戻り、大伴継人他を捕らえ、かって家持の上司で
あった石川年足の息子「右大弁石川名足等に勅して、これを推勘せし」(日本紀略)め、家持は、
「死後廿余日。其ノ屍未ダ葬ラザルニ」(続日本紀・巻38)、謀反の張本人に仕立てられた早良親王
(無実を訴え、餓死後淡路に埋葬され、皇太子を廃された。)に仕えていた春宮大夫として追除名、
官位剥奪され、子息の右京亮永主は、隠岐に流されました。

 生前に「橘奈良麻呂事件」「藤原宿奈麻呂(良継)」「氷上川継謀反」などに「連座させられて」
来たわけですから、家持は死してもなお政変に「連座させられ」続けました。即ち、氏族間の政争の
犠牲者に他ありません。

 死してなお安住の地はえられず、嫌疑の念が晴れたのは、それから21年後、延暦25年(806)
早良親王の怨霊に悩まされた桓武天皇が70歳で崩御する時を待たねばなりませんでした。
 家持は罪科を除かれ、本位の中納言を戻し、除名時没収された家財中の万葉集に関係した家持の
歌集や歌日記が不完全のまま後世で日の目が見られるようになったと考えられています。

 幾度となく血なまぐさい政争の乱世を経験してきた家持は、42歳までの前半生で一応の形を
整えた「万葉集」という後世への遺言によって、永遠の安楽が得られていたのではないでしょうか。
 したがって、42歳で既に言霊によって永遠の命が与えられていましたから、68歳で「死して
なお安住の地あらず」というあの世での思いも、大した問題でなかったかも知れません。

 国の中枢に近づけば、近づくほど「命危うし」の譬えは、何も家持の時代に始まったことではあり
ません。数千年の人間の歴史のいずれの時点でも、いずれの場所でも同じ様な歴史を繰り返して
きているのです。
 現在の時点、即ち21世紀に入っても一国内でなく、地球規模的に人間は、戦争を展開しています
から、1300年前と全く事情は変わらないと言えましょう。何時の時代においても形を変えた
人間同士の諍いはとどまることがありません。

 大伴家持は、幸か不幸か、人間が本来所有している善悪両面の人生体験をしました。
 家持殿!不名誉な汚名も「万葉集」によって完全にカバーして余りあるだけの名誉を後世の人々は
あなたに与えましたので、どうか安らかな万葉の歌苑にておやすみ下さい!
<21世紀の多賀城の出来事>
  天国の大伴家持さんへ、
 ご参考までに、かって多賀城市長や宮城県知事以上の立場にあった家持さんへ、21世紀に入った
多賀城周辺の現況をお知らせしましょう。

 1.21世紀に入った最初の年の平成13年度に「2001第56回国民体育大会」が多賀城周辺を
   含む宮城県で開催されました。
   北は北海道から南は沖縄まで日本全国から、多賀城周辺の運動施設に集合して、全国民参加の
   体育大会が挙行されました。

 2.多賀城市を南北に縦断して、「三陸自動車道」が開通して、自動車での移動が便利になりました。
   また多賀城域の南を「東北本線」の鉄道列車が走っています。
   20世紀までは、「陸前山王」駅しかありませんでしたが、「国府多賀城」駅が開設されました。
   ますます、多賀城を訪問しやすくなりました。

多賀城市の周辺と宮城スタジアム
 
 3.2002年ワールドサッカー国際試合が、北隣の利府町にある「宮城スタジアム」で開催され、
   世界各国から選手や観客が集まります。

 4.多賀城市は、現在人口6.2万人弱の仙台市衛星都市に発展しています。


平成14年2月28日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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