源頼政は、清和源氏(遠祖満仲)の流れの中にあって、武将の誉れ高い遠祖頼光に劣らぬ文武両道の 人物であったわけで、仲正を父として、仲綱と讃岐の二子をもうけました。 何としても残念なのは、治承四年(1180)5月、平氏討伐の先兵として宇治川の合戦における 「平等院・扇の芝」での憤死ではないでしょうか。 「平家物語」(巻第四・宮後最後)で、頼政の最後は次のように語られています。 「・・・西に向ひ、高唱に十念唱へ、最後の詞ぞあはれなる。 埋もれ木の花咲くこともなかりしにみのなる果てぞかなしかりける 是を最後の詞にて、太刀の先を腹に突き立て、俯様に貫てど失られける。」


しかし娘の讃岐は、父の死後も自ら切り開いた和歌の道で、「沖の石の讃岐」として、二条天皇内 裏歌壇、後鳥羽院歌壇、順徳院内裏歌壇などで活躍し、建保五年(1217)77歳でなくなるまで、 千載和歌集以下勅撰集に72首も和歌を残し、また百人一首の作者になって永久に名を後世に残す ことができました。<頼政の系譜>
ー満仲ー頼光ー*−*−*−頼政(1104〜1180)
摂津源氏で、下総守、上野守を努めた仲政の嫡男
保元・平治の乱に参加。平治の乱では、同族の源義朝を見限り、
平清盛についた。
晩年、平家の専横を恨み、後白河天皇の第二皇子以仁王の
平家追討令旨を得て、挙兵し、宇治川の合戦で敗れ、
平等院の扇の芝で自害した。77歳。
其の三ヶ月、源頼朝が「源三位頼政」の「先駆け死」に、
花を咲かすべく、伊豆で挙兵した。
辞世の句
「埋もれ木の花咲くこともなかりしに
みの成る果てぞ悲しかりける」
頼政を有名にしたのは、なんと言っても、仁平三年(1153)毎夜御殿に現れて近衛天皇 (1151〜1154)を悩ませた怪獣鵺退治です。 この紫宸殿の怪獣は、頭が猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、鳴く声は鵺(一名、とらつぐみ)と いう化け物で、「弓張り月」の強弓で射殺しました。 鵺に関係したところを三か所尋ねてみます。 (その1)京の都の二条公園 この鵺退治に関係した縁の場所として二条城北西の「二条公園」内にある池が、頼政が鵺を射止めた 鏃を洗った池として、池中島に鵺池碑が建っていると言うことでしたが、現在は二条公園の北西隅 すなわち、NHK京都放送会館の南面に位置します。 現在の二条公園は、明治初期の獄舎があったところを昭和九年に二条公園にしたところです。 しかし、「鵺池碑」の漢文銘は次のようになっています。 「我源朝臣松平紀伊君在京之日家臣太田毎資亦来居焉其宅後有一池曰鵺池俗伝以為頼政卿 當滌射鵺鏃之池矣今毎資者道潅七世之孫而頼政卿遠裔也聞斯事喜適居其地且懼其就泯滅 因使予録其事止石嗚呼追遠之心亦美乎遂書銘曰 怪鳥當射 志不可敵 休矣邦彦 其聲太逖 元禄庚辰三月望日 松崎正祐記」


(その2)大阪都島の「鵺塚」 大坂の町の真ん中にも鵺に関係した塚があります。 大阪市都島区都島本通3−18の桜堂り商店街のはずれの町中にある「鵺塚」です。 どうして、京都の紫宸殿で射殺された鵺の塚が大阪市内にあるかということですが、言い伝えに 依りますと、鵺の屍は、洛中洛外に引き回した後、丸木船に乗せて淀川に流したところ、当時湿地帯で あったこの都島の地に漂着したというのです。


この鵺の祟りを恐れた村人はこれを土中に埋め、懇ろに祀ったと伝えられています。 現在の塚は、明治元年(1868)大阪府が改修し、祠も昭和32年に改修されています。 鵺も京都大阪にかけて、人を騒がせたことになります。 (その3)芦屋浜の鵺塚 さらにこの鵺は、淀川口からさらに流れて、芦屋の浜まで行ったようです。 「西摂大観・郡部」武庫郡東部・第七・墳墓の項で、「鵺塚」として、次のように言及しています。 「鵺塚は東芦屋川の東、街道の南手にあり、今は某氏の庭園となりて、老松数株存す。」 「摂陽群談」、「摂津名所図会」に云う、 「鵺塚 芦屋川住吉川の間にあり、今さだかならず、昔源三位頼政蟇目(ひきめ)にて、 射落としたる化鳥、舟に乗せて、西海に流す。此の浦に流れよりて止どまるを、浦人ここに 埋むといふ。 また東成郡滓上江村(かすがえむら)の東田圃の中にも、鵺塚と称する有り。 いずれも分明ならず。」




芦屋市では、「ぬえ塚の怪物」と題した子供向けの読み物に紹介しています。 その挿し絵を引用しておきます。

都島の浜に打ち上げられた鵺も、芦屋の浜に流れ着いた鵺もいずれも関連や詳細は不明の 伝承ありと云うことです。 因みに、「平家物語」(巻第四・鵺(ぬえ))には、鵺の話は、三話語られています。 (その1)寛治年間(1087〜1094)73代堀河天皇時、源義家が、天皇の御悩を 鎮めたという故事 (その2)仁平年間(1151〜1154)76代近衛天皇時、源頼政が、鵺を退治したこと。 (その3)応保年間(1161〜1163)78代二条天皇時、同じく源頼政が、同じく鵺を 退治したこと。 この語りに依りますと、件の「ぬえ」は、二匹居ても可笑しくないわけで、都島の岸に流れ 着いたのは、「仁平の鵺」で、芦屋の浜に打ち上げられたのは、「応保の鵺」出会ったかも しれません。大変細かい話の顛末になりますが。