良暹法師の推定略歴は、次の通りです。 藤原実方家の童女白菊を母として990年頃生まれたとされ、比叡山の天台僧侶として祇園別当に なり、大原に隠棲し、晩年は、雲林院に住したと伝えられています。歌合わせなどで、もっとも 活躍したのは、1040年頃(50歳前後)とされています。 なお、彼の説話は、「十訓抄」や「古今著聞集」などに載せられています。 ここでは、大原の里と祇園地区および雲林院の現況を追ってみましょう。<大原への道>
京都市街地から北東の方向高野川沿いの国道367号線を上がること、約10kmで、八瀬経由 大原の里に着きます。叡山電鉄とバスを利用する現在でも市内からはゆうに30分はかかる山里です。 同じ山里でも鞍馬が京の都の真北の山中に位置しているのに対して、大原は比叡山の真北に伸びて います。


大原に達するには、鞍馬街道を静原経由江文峠(242m)を越える道も古くから利用されて きました。 そんな山奥でも現在の行政区分は、京都市左京区に属しています。上、中、下京区などに比べて、 左京区は、京都市ではもっとも広域行政区になっています。 因みに京都市の行政区名称は誠に明確で、旧市内を上京区、中京区、下京区として、その廻りに 北区、南区、西京区、東山区、伏見区、さらに山一つ東の東南地区には山科区があります。 昔から遁世の人々の住むところとして、大原の里は見られてきましたが、現在では京都市内に なり、さらには人々が春秋の季節に、大挙訪れる観光地と化してしまいました。 良暹法師の歌は、後拾遺集巻四・334番歌の詞書きでは「題知らず」として詠まれていますが、 この大原の里での詠とされています。 これは、彼の父が比叡山の僧侶であったため、比叡山の真北の大原の地は馴染みがあり、彼自身は 晩年は雲林院に住したと伝えられていますが、併せて、大原にも住みついたのではないかと思われます。

和歌集に良暹法師が体験した大原の里を引用してみましょう。 ー大原に住み始めける頃、俊綱朝臣のもとにいひ遣しけるー 「おおはらやまだすみがまも習はねばわが宿のみぞ烟絶えたる」 (詞花和歌集・巻10・雑下・365) ーあれたる宿に月のもりけるをよめるー 「板間より月のもるをも見つるかな宿は荒らしてすむべかりけり」 (詞花和歌集・巻9・雑上・283) 又、後拾遺集に良暹法師と素意法師が、次のように歌を取り交わしています。 ー良暹法師大原に籠もりゐぬとききてつかはしける 素意法師ー 「水草ゐし朧の清水底澄みて心に月の影はうかぶや」(巻17・雑三・1037) 返し 「程へてや月も浮ばん大原や朧の清水すむなばかりに」(巻17・雑三・1038) この一対の歌で詠まれている「朧の清水」は、国道367号線(八瀬ー途中間)の大原より寂光院に 至る田舎道の脇にあります。歌から推測するに、良暹法師は多分高野川の西地区で寂光院の近くの 山里に庵を結んでいたのではないでしょうか。 「朧の清水」の脇に立って寂光院の山里を眺めると、いかにも世捨て人の里の感じがします。

後拾遺和歌集には良暹法師の歌に続いて、 ー良暹法師のもとにつかはしけるー 藤原国房 「思ひやる心さへこそさびしけれ大原山の秋のゆふぐれ」(巻17・雑三・1039) この歌に代表されるように大原の里の醸し出す雰囲気は人もあまり訪れない寂しい世捨て人の 世界で、そぞろ寒い冬の雪景色が似つかわしい土地柄であったのです。 ー炭窯の烟棚引く里ー、−雪に明けくれる山里ーなどの大原を余すところなく詠んだのが西行法師の 友達である寂然の大原十首です。 山家集・羇旅歌の部に「入道寂然大原に住み侍りけるに、高野より遣わしける」として、初句の 「山深み」を戴いた10首の歌を寂然に送ったのに対して、「返し」で寂然は「結句」に「大原の里」を 用いた歌10首を詠んでいます。 大原10首 「あわれさはかうやと君も思ひ知れ秋暮れ方の 大原の里」 「一人すむおぼろの清水友とては月をぞすます 大原の里」 「炭がまのたなびく烟ひとすじに心ぼそきは 大原の里」 「何となく露ぞこぼるる秋の田のひた引きならす 大原の里」 「水の音は枕におつるここちしてねざめがちなる 大原の里」 「あだに吹く草のいほりの哀れより袖につゆおく 大原の里」 「山風に嶺のささぐりはらはらと庭に落ち敷く 大原の里」 「ますらをが爪木にあけびさし添へて暮るれば帰る大原の里」 「葎はふ門は木の葉に埋もれても人もさしこぬ 大原の里」 「もろともに秋も山路も深ければしかぞかなしき 大原の里」 この10首によって大原の里が余すところ無く述べられています。観光地化した現在にあっても何と なく寂然の読み出した環境が分かるような山里の雰囲気がまだ「大原の里」には残っているように 思います。目次に戻る
大原の里を有名にしたのは、良暹でも寂然でも西行でもありません。 良暹法師の庵から約100年後の世界に平家物語として登場した寂光院であり、高倉天皇皇后徳子 (平清盛女)によってであります。 寂光院の由緒書きに依りますと、「推古天皇二年(593)聖徳太子が用命天皇の御菩提のために おたてになった」とのことですから、1400年の歴史を有している古い寺院です。 その後約600年経って建礼門院徳子が「文治元年長月の末(1185)に、かの寂光院に入らせ たまふ」たわけです。
平家潅頂巻「女院出家」や
「大原入り」の下りになります。
寂光院の「本堂内陣およびその柱は
平家物語当時のもの」とされて
800年以上の昔の雰囲気を
今に伝えていたのでしたが
先年火災により焼失したことは
残念なことです。
新たに再建された新堂宇は、
寂光院の世界として、
永遠に平家物語の世界を保ち続けることを
願ってやみません。
(参考情報)寂光院の火災記事 平成12年5月9日、深夜に発生した痛ましい火災の状況および放火事件として 捜査中の京都府警下鴨警察署の情報提供公報を下記に引用します。 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2000may/09/15.html http://www.pref.kyoto.jp/fukei/jyakukoin.htm目次に戻る